コハルアン日乗

コハルアン店主の私的記録|器と工藝のこと|神楽坂のこと

やめたこと

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バタバタと日々もがいているうちに、いつのまにやら齢五十になってしまった。おおこわ。
「五十而知天命(五十にして天命を知る)」なんていうけれど、聖人君子のように生きられるわけもなく。思い起こせば、「三十而立(三十にして立つ)」くらいまではまあまあよかったのですが、「四十而不惑(四十にして惑わず)」のあたりで躓いたような気がします。
凡人の人生なんて、こんなものなのかな。

とか言いつつ、今日は、五十になる前に「やめたこと」についてのお話。


そう、数年前にやめたのが、同業他店の暖簾をくぐることなのですよ。
知り合いの作り手から個展等のご案内をいただいたりすれば、その方の作品を見るために足を運びますが、それ以外での他店訪問……いわゆる視察的な行為とはオサラバしてしまいました。

マーケティングというフィールドにおいては、世の最新事情(および同業者の情報)を把握する作業はとても大事なのでしょうが、視察って結局のところ、他所様の価値基準を受け容れたり、世の趨勢に阿ったりすることにつながってしまうでしょう?
最近、器ブームなんて言われちゃってるけど、時代性といううたかたの魔物に慌ただしく追い立てられ、自分の視点が乱されるようなことがあってはいけないな、と。こう見えて、意外とやわなハートの持ち主なので、余計なことに惑わされずに生きてゆきたいと思うのです。

僕の場合、海越え山越え旅して、好きな作り手を訪ねたり、美味しいもの食べたり、骨董を漁りに行ったり、心惹かれる建築に触れたり、たまにはお芝居に心躍らせたり……、視察をする時間があるのなら、直感を駆使して真に心の滋養となるひとときに充てたいもの。その分、世の最新情報には疎くなるかもしれないけれど、好きなことのためにアンテナを立てて生きる方が心は豊かになってゆくような気がします。
僕が扱っているのは、コモディティ化した商品じゃないし、マーケティングよりは心の豊かさがモノを言うお仕事なのかな、と。早く百貨店勤務時代から続けてきた方法論とは決別しなければいけないな、と。


僕は、なかば自虐的な意味をこめて「インディペンデント系の器屋ですので……」と自己紹介することがあるのですが、最近はその傾向がさらに強まっているかも。
そして、視察というマーケティングのセオリーを無視するようになってからこのかた、お仕事の幅が広がったり、楽しげなお誘いが増えてきたような気がします。コンサルタントのような立場の方から見れば、こんな店主は商売人失格でしょうけどね。

一般的に大事だと言われていることも、万人に当てはまるものではない、ということなのかな。したり顔で存在している常識についても、いちど自分の視点で棚卸しをしてみた方がよいかもしれませんね。

天命を知る術はまだまだ手にできそうもないけれど、10年遅れで、惑わない状態には近づきつつあるような……。
そんなこんなで半世紀。もうちょい遠い場所まで歩いてゆけたらいいな。


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